1989年、40フィートカタマランヨットを自作しようと設計図を購入、90年1月、設計図からシナべニアに原図を起こた。そしてそれと並行して自宅から通え海に近い自作させてもらえる借地を探し歩くと偶然通り掛かったクレーン屋さんの敷地にヨットが置いてあったのを見て交渉、ご本人も根っからのヨット好きということもあって、快く承諾してくれた。そのように何もないとことからはじめ、9年かけて、あとはエンジンとマストを海に出てから装備するところまで、ヨット作りを続けることができた。周囲の人は完成するとは思っていなかったようでブルーシートとトタンで覆われた小屋を潰し、一様外観がカタマランヨットになった姿を見て驚いたと思う。
1997年の夏ごろから、川下り用の筏の準備をすることになり、最後の難関である西宮に持って行くことで頭を悩ませた。どの時期に川に筏を浮かべ海に出るのがベストか話し合った。一番気懸りだったのが、淀川の本流にでるまでのところに、落差1メートル程度の丼度があることだった。岩が取り除かれている左岸よりの10メートル幅の部分が水路になっていて、その部分を筏が通過すれば、言わば激流下りになることであった。かと言って洪水の中、出ていくのも怖い。ほどほどの水嵩があって、大山崎の丼度を超えられるチャンスを伺った。
1998年6月14日、川の水の量も多くなってきたので、いよいよ大阪湾に向け出発。クレーン屋さんの敷地を我々3人は友人たちの助けを借りて、台車に載せて幅6メートルの道路を早朝、100メートルほど手で押して離合できる場所まで移動した。運よく、誰からもクレームがなく、警察は来なかった。
クレーンでまず、堤防上に船を吊り上げ、ヨットを乗せる筏、2基の上に両足をまたぐように4トントラックに乗せた。
1998年6月14日、あまりギャラリーはなく幸いであった。
カタマランを下せる川の入江まで堤防の道を行進。次に待っているのが、河川敷でのアクシデント。
河川敷に入り、ヨットが下せる入り江に行きかけた時、アクシデント発生、トラックが河川敷のグランドにタイやがにえこんで動けなくなった。もう、どうしようもなくヨットをクレーンで下ろしてもらい、河川敷にヨットを置いてとりあえず、レンターカー屋さんにトラックを返した。次の日、その河川敷に様子を見に行ったところ、淀川工事事務所の役人が見張っていた。これはマズイと思った。
役人の隙を狙って日曜の早朝、21日だったと思う。再チャレンジした。なんとかトラックに筏2基を積み、またその上に船を乗せて入り江まで行けた。そしてクレーンで水面に下ろすことができた。天の恵みだった。その夜から大雨になり、一遍に水かさは増した。早朝、大雨の中、川下りが始まった。難所の根岩の丼度が水かさが増したせいで、ほとんどなくなっていた。ラッキーとしか言えなかった。岩を超えたとき、筏の底を少し擦ったがカスリ傷であった。
淀川から新淀川の間には、大きな堰があり、川船などは毛馬の閘門を使って大阪湾と淀川を行き来している。閘門を出ると天神祭りで知られる大川。
ここまで来るのに紆余曲折があった。毛馬の閘門から大川に出たところで、筏からヨットを川砂業者のクレーンで下してもらった。そこで待っていた2隻の曳き船が我々の前と後ろにロープをつなぎ、中之島の街中を抜け、大川から大阪湾に向かった。いくつかの橋をくぐったが、もう橋桁がぎりぎりで、少しでも潮が上がったら脱出不可能と言うところであった。狭い水路の川を出ると、後ろの船は毛馬の方に戻って行った。先頭の船だけで西宮まで我々を引っ張って連れてくれた。
カタマランの後ろには、川下りに使った筏とゴムボートも一緒に、西宮まで持って行った。
その後、1998年6月の末、エンジン、マストのない開成は西宮のヨットクラブに舫えた。
エンジンやマストの工事、船検の取得などの工程でまた1年程を経過し、結局、完成するまで10年を要した。